Dec 23, 2010

興味のある不動産投資

今回は、沖縄で不動産投資をすることになりそうだ。中古ワンルームマンションやリゾートの権限の話ではない。今回の不動産投資案件は、沖縄の土地である。それも、賃借人は、国である。つまり、米軍基地の地主のではないかという話があったのだ。沖縄では一般に販売されているようだ。自分が不動産投資に関心を持ったのだ。
まだ正式には何も話が進んでいないTPPことを今考えても仕方ないことかもしれないが、もし、TPPが成立すると、外国人労働力と人材が多く、日本に来る赤ちゃん、アパート経営の最先端にも大きく変化してくるのではないでしょうか。今では、ファミリータイプに押されて苦戦気味のワンルームタイプのマンション事業にも外国人向けに特化するとまたこの前の勢いを取り戻すかもしれませんね。
 東日本大震災の発生当日から15日間、日々の出来事を記録していた人がいる。岩手県宮古市の船員、工藤募(つのる)さん(46)。宮古港でスケトウダラの水揚げ中に地震に遭ったが、いち早く沖合に出て船は津波の被害から逃れた。港に戻って3カ月以上船で暮らし、今は同市内の仮設住宅に入居している。恐怖、喜び、感謝などがつづられた工藤さんの“日誌”は、6日目から毎日同じ一文で締めくくられている。「今日も大丈夫」。それは自分が生きていることを確認する言葉だった。(緑川真実)

 3月11日 15時前地震。大津波警報にて、15時ちょうど頃、船を沖へ出す。5分遅かったらダメだったと思う。沖にて待機。テレビを見ながら皆、がくぜんとする。乗組員は全員無事。

 3月12日 沖にて見守るだけ。ものすごい数のがれきが流れている 本日も沖にて待機 乗組員全員無事。

 3月13日 (大津波警報が)注意報に変わったため、港に向かう。海底の状況がわからないので、低速で進む。港まであと200〜300メートルの所まできた時、足がふるえる。接岸。皆それぞれ体に気をつけて家族が無事であることを祈り、解散。

 発生から3日間の記録の概要だ。「あんなことが起こると、記録しなくちゃと思うんだな」と話す工藤さんは底引き網漁船「第18蛭子(えびす)丸」のコック長。3月11日、岸壁に亀裂が入るほどの激しい揺れが突然襲った。津波を恐れた船頭は「船出すぞーっ」と叫んだ。せめて水揚げを終えてから、と躊躇(ちゅうちょ)していた僚船も、蛭子丸からの無線に促され、港を出た。まもなく、湾内の海水がなくなると思うほど水位が下がる。

 ◆船上生活スタート

 何とか逃れた沖合で、最初に見た津波被害の映像が、見慣れた宮古市場の駐車場で車が流れていく光景だった。全員が一斉に携帯電話で家族に電話をしたが、誰もつながらない。田野畑村出身の工藤さんも同様だ。母と弟がいる実家に何度も電話したが、つながらず、「もうダメだと思った」と振り返る。18日になってようやく弟が吹き込んだ「家族全員無事」という留守番電話メッセージを聞くことができた。喜びを押さえ切れないように、「家族全員無事」の部分は濃い線で囲まれ、メッセージを「3度聞き直す」と書かれている。

 工藤さんは船内に備蓄してあった食料の番人役として船上生活を始めた。米60キロ、パン粉や小麦粉。真水が6トン。町に戻っても水も電気も期待できない。船員がいつでも食料を取りに来ることができるようにしたのだ。

 船を下りた仲間と再会した17日は、人によって明暗が分かれる現実に直面した。「○○家大丈夫。○○さん、息子大丈夫、家ダメ、奥さん遺体で見つかったようだ」などと書かれている。

 ◆念願のリップクリーム

 日誌には、花巻市の友人と4時間もメールのやりとりをして、相手に「いいかげんに寝ろ!」とたしなめられたことや、唇が荒れてリップクリームがほしくて、それがようやく手に入ったとき「こんなことでもすごくうれしい」と思ったことなど日々の感情の揺れが伝わってくる。

 また、「港には自衛隊の車両が20〜30台。いろいろな県のナンバーなのを見ると涙が出る」「京都府警の方に声をかけられた。自分の田舎と似ているイントネーションでほっとした」といった被災現場での素直な気持ちが描かれている。

 印象的なのは、16日以降、毎日「今日も大丈夫」の言葉で締めくくられていること。工藤さんは「最後にこう書くことで、今日も一日生きていた、と自分に言い聞かせていた」と打ち明ける。船上生活は6月末、漁期の終わりとともにピリオドが打たれた。秋の出漁に備えて船の点検・修理が必要だからだ。

                   ◇

 記者が工藤さんに会ったのは4月のことだった。宮古港の取材中に船の中から顔を出し「ここに住んでいるんですよ。よかったら…」と、船内に案内された。帰り際に「これ持ってけ」と、書類の裏に、自分の周りで起こったことを細かく書き続けたメモの束を渡された。そのとき、工藤さんは「日記を自分で読み返して、過去を振り返ってもしかたない」と話した。

 その後、何度か取材を重ねるうちに、この日記は、きちんと残さなければならない、という思いが強まり、工藤さんの許しを得て記事にした。

                   ◇

 ■工藤募さんの“船上日誌”

 【3月11日】15時前、地震。<略>大津波警報にて、15時ちょうど頃、船を沖へ出す。<略>5分おそかったら、ダメだったと思う。沖にて待機。テレビを見ながら、皆がくぜんとする。乗組員は全員無事。

 【3月12日】警報の解除を待つも見通したたず。沖にて見守るだけ(宮古市の)田老で火事のもよう。煙が見える。ものすごい数のガレキが流れている。<略>本日も沖にて待機。乗組員全員無事。

 【3月13日】注意報に変わったため、0800(午前8時)港に向かう。海底の状況がわからないので、低速で進む。港まであと200〜300メートルの所まできた時、足がふるえる。皆も同じだと思った。0930(午前9時半)接岸。沖で2日いた時に今後のことを話したが、皆それぞれ体に気をつけて家族が無事であることを祈り、解散。<略>会社の人たち全員無事。エンジンかけたまま、今日から船はここにいる。

 【3月14日】地震のたびに高台へ。<略>

 【3月15日】朝、住んでいたアパートに行った。倒れてはいなかったが、中はダメ。ジャンパーと写真、濡(ぬ)れていたが、持ってきた。あとは流されたみたい。<略>

 【3月16日】寒い朝で雪が3センチほどつもった。昼、まだ雪がやまないでいる。電気がダウンしている所の人たちのことを考えると、空までもが憎い。<略>京都府警の方に声をかけられた。自分の田舎と似ているイントネーションなので、ほっとした。家族を思い出す。港には自衛隊の車両が20〜30台。いろいろな県のナンバーを見ると、涙が出る。早く寒波がさってほしい。今日も大丈夫だ。

 【3月17日】<略>田老の○○さんが来た。奥さんOK。家流された。電気も水もだめらしい。××さん、家大丈夫。奥さん、息子2人も大丈夫。△△さん、息子大丈夫。家ダメ。奥さん遺体で見つかったようだ。<略>今日も大丈夫。

 【3月18日】<略>留守電とかメールが着信しているが、こちらから確認できない。送信もだめだ。市役所あたりで留守電聞くことができた。弟より家族全員無事。3度聞き直す。今日も大丈夫。

 【3月19日】夕べから入り潮がきつくて、ロープが2本切れた。<略>加工場に働きに来ている中国の人たちに会った。「がんばる」「大丈夫!」「みんな逃げたよ!」笑顔だった。<略>花巻の友人よりメール、トータル4時間くらいやりとりして、ここぞとばかりに、いいかげんに寝ろ!と言われ、0030(午前0時半)床に。今日も大丈夫。

 【3月20日】<略>だいぶヒゲが伸びてきた。はやくふろに入りたいがまだ無理か。<略>取りこわし作業とかの土ぼこりがすごい。風向きが悪い。もろに受ける。あまり外に出ないようにした。今日も大丈夫。

 【3月21日】会社のかたづけ。<略>どこから手をつけていいかわからない中、少しずつ。<略>まだ大家さんに連絡してなかったなあ、生きてること。夜、メールのやりとり。今日も大丈夫。

 【3月22日】<略>船頭が来た。色んな話を聞く。残念な話もあるが、良かったことの方が多かったので、よし。今日も大丈夫。明日に。

 【3月23日】<略>日に日につかれがたまってくる。やっぱりリップクリームがほしい。口があれて痛い。2日ぶりに米をたいた。みそ汁はおいしい。今日も大丈夫。

 【3月24日】<略>車でコンビニにつれていってもらい、念願のリップクリームを手に入れた。こんなことでもすごくうれしい。<略>今日も大丈夫。

 【3月25日】<略>昼、アパートの大家さんに会うことができた。お互いに生きていることに「よかった!」と。盛岡まで行ってみようと思う。北上にいる船のおかみにも会いたい。誰かに会うとホッとする。今日も大丈夫。

 ※表記は原則、原文に従い、最小限の手直しにとどめた。カッコ内は産経新聞で補足

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